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プロ野球全般
さて、今日は昨年の、
千葉ロッテマリーンズの歴史について。
川崎球場時代は常にスタンドは閑古鳥で、パ・リーグのお荷物とまで呼ばれた球団でしたが、千葉に移転以降は地域密着・ファン重視の球団運営がうまくいっている球団でもある。
そんな
千葉ロッテマリーンズのここ五年の成績ですが・・・
- 2009年:5位
- 2008年:4位
- 2007年:2位
- 2006年:4位
- 2005年:優勝&日本一(但しレギュラーシーズン自体は2位)
と、
バレンタイン監督のボビーマジックなどもあって、たびたび上位を争う球団になり、もう『お荷物』とは呼ばれなくなりましたが、ここ2年は故障者の多発などもあって、なかなか上位に進出できていません。
各選手のコンディショニングと、今シーズンから指揮を取る、生え抜きの
西村監督の手腕が注目です。
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さて、このチーム、直接のルーツは戦後に設立された、
毎日オリオンズが源流となるわけなんですが、この
毎日オリオンズが戦後の2リーグ分裂騒動の発端となったチームでもあります。
球団の設立は1949年の9月、
毎日新聞社が親会社となって設立されました。
毎日新聞社はもともと昭和初期に
セミプロ野球チーム・大阪毎日野球団(大毎野球団)を組織していた。戦後、
正力松太郎からの勧誘を契機に球団結成の気運が高まり、戦前の
大毎野球団を基礎に、自ら主催する
都市対抗野球の有力選手をスカウトして球団を結成し、リーグ拡大の機運にも乗って加盟を申請したのですが・・・
同業ライバル社の参入を快く思わない、
読売新聞社(
読売ジャイアンツ親会社)・
中部日本新聞社(
中日ドラゴンズ親会社)が強く反発。交渉は平行線を辿り、
電鉄系を中心とした
毎日加盟賛成派の球団による
太平洋野球連盟(
パシフィック・リーグ)が結成されるという
「2リーグ分立騒動」に発展した。
この際、当初は
毎日オリオンズの参入に賛成であったはずの
阪神タイガースが土壇場になって、反対に回ってしまいます。(このあたりの経緯は良く分かりませんが)そのため、
毎日オリオンズは意趣返しとして、
阪神タイガースの主力を大量に引き抜いたとも言われています。
かくして、1950年からの2リーグ制のスタートと同時に参戦した、
毎日オリオンズですが、当初の本拠地球場は
後楽園球場。
阪神タイガースから引き抜いた選手などの活躍もあって、参戦初年度にいきなりリーグ優勝。日本シリーズでも
松竹ロビンスを圧倒し、日本一に輝いています。
しかし、1952年の『平和台事件』をきっかけに、湯浅総監督と若松監督が更迭されると、チームは低迷します。
*1952年7月16日、プロ野球・パシフィック・リーグ公式戦・西鉄ライオンズ対毎日オリオンズの試合において、毎日オリオンズが露骨な遅延行為によって、負け試合をノーゲームにしてしまい、それに怒った西鉄ファンが暴徒化。機動隊まで出動する暴動と化した事件
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1957年オフに、同じく成績低迷にあえいでいた、
大映ユニオンズと対等合併し
毎日大映オリオンズに改称。略称は
大毎オリオンズ。オーナーには、大映の永田雅一社長が就任することとなる。
1950年の優勝以後、
西鉄と
南海ホークスに水をあけられていたが1960年に2度目の優勝を遂げる。この年監督に就任した
西本幸雄のもと
榎本喜八、
山内和弘、
田宮謙次郎らを擁す破壊力抜群の
「ミサイル打線」でリーグ制覇を飾るが、日本シリーズ対
大洋ホエールズでのバント戦法が永田オーナーの逆鱗に触れ、西本は1年で解任される。その後はBクラスに甘んじた。この年を以って
毎日新聞社は球団から役員を全員引き上げ、経営から事実上撤退。永田が完全に球団経営を掌握する事になる。
1962年には、オーナーの永田が私財をなげうって、東京・南千住に建設した専用球場・東京スタジアムに移転。
1964年にはチーム名を
東京オリオンズに改称。但し、現在で言うところの地域密着策というわけではなく、東京都を保護地域とする他球団が「東京」を名乗っていない事に永田が目を付け
「東京を本拠地
とする球団の中でも、“東京”を名乗る我がオリオンズこそが、東京を代表するチームである」と発案したのがきっかけだった。だが、この改称は
毎日新聞社側への根回しがないまま行われたため毎日側が不快感を示し、結局この年のシーズンを最後に
オリオンズへの支援を打ち切った。
*そりゃ、毎日新聞社(とくに戦前の大阪毎日野球団を持っていた大阪本社側)からすると、勝手に『東京』を名乗られたんじゃ、不快に違いないでしょう。しかしながら、映画産業の斜陽で、他の映画会社系球団が身売りをしていく中、
東京オリオンズも例にたがわず、1969年1月、ロッテをスポンサーに迎えて業務提携を結び、チーム名を
ロッテオリオンズに改称している。但し、この時点では球団の売却を行ったわけではなく、
ロッテにいわば
『冠スポンサー』になってもらっただけである。このため、球団経営にロッテ側の人間が参画することも無かった。
1970年には10年ぶりのリーグ優勝を果たし、
東京スタジアムでの優勝決定時には、観客が次々とグラウンドになだれ込み、そのまま真っ先に永田オーナーを胴上げしたというエピソードも残っている。
翌年、永田(=大映)は球団経営から撤退。
ロッテが正式に球団を買収することとなる。
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球団の親会社は
ロッテとなったが、永田の設立した
本拠地・東京スタジアムの扱いについて、もめることとなり、結局1972年オフに
東京スタジアムは閉鎖。
ロッテオリオンズは本拠地を失い、本拠地の無い状態が1977年まで続く。この間は
『ジプシー球団』などと揶揄されながら、
後楽園球場・
川崎球場、
宮城球場、
明治神宮野球場を転々とする状態が続いた。(1974年からは宮城県を準本拠地に暫定的に設定していた)
この間、1974年には、
金田正一監督の下、
有藤道世、
山崎裕之、
弘田澄男、投手では
成田文男、
村田兆治、
木樽正明らが活躍してリーグ優勝し、日本一になった。
しかし、このとき準本拠地を仙台にしておきながら、施設上の問題として、主催3ゲームを後楽園で実施。
優勝パレードも
東京・銀座から新宿にかけて行われたのみで
仙台では行われず、これらの行為は仙台市民や一部のスポーツ新聞から「地元無視」と批判されたこともあった。
1977年、
横浜スタジアムの建設開始に伴って、同球場への移転が決まっていた
大洋ホエールズとともに、本拠地をシェアする折衝を行っていたが、その折衝には失敗。その後、川崎市側から招致を受け、
川崎球場を本拠地にすることとなった。
1978年から正式に
川崎球場を本拠地として使用
(なお、県営宮城球場も事実上の準本拠地という位置付けで、引き続き年間10試合前後の主催公式戦を開催)。観客動員は少ないながらも1980年の
張本勲の3000本安打、
1985年〜1986年の落合博満の2年連続三冠王、
1988年10月19日ダブルヘッダーの死闘などはチームはもちろんパ・リーグ全体に大きな光をもたらした。
しかし、チーム成績としては、特に1982年以降、投手力の落ち込みが顕著で振るわないシーズンが続く。チーム成績の低迷とは裏腹に、タイトルホルダーは多数輩出。1984年には
石川賢が最高勝率、
西村徳文が1986年から
4年連続で盗塁王、1990年には首位打者になり、1987年は落合とのトレードで中日から移籍してきた
牛島和彦が
最優秀救援投手(1988年にもセーブ王に輝く)、1988年は
高沢秀昭が首位打者・
小川博が
奪三振王、1989年は
村田兆次が
最優秀防御率、1991年は
平井光親が
首位打者に輝いた。
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成績同様、「12球団最低レベルの観客動員数」が喫緊の課題となっていた球団は、本拠地の移転を決行。現在の千葉マリンスタジアムに本拠地を移転し、球団名も一般公募を募り、
千葉ロッテマリーンズに変更となって、新たなスタートを切る。
移転初年度こそ、移転景気で観客動員が130万人をマークするなど順調な滑り出しを思わせたものの、肝心のチーム成績のほうは低迷を抜け出せず、千葉県民の目も徐々に冷ややかになっていった。こうして、川崎時代から続く
「12球団最低レベルの観客動員数」という大きな問題点には千葉移転後も苛まされることとなる。
ついに1994年には、
パ・リーグ会長は、ロッテのチーム力の低下と観客動員数の低迷を強く懸念。重光オーナー代行に対し
「もっと努力してほしい」と注意を行うという、異例の事態となった。
翌1995年、
パ・リーグ会長からの檄が利いたかどうかは定かではないが、
広岡達郎GM,
バレンタイン監督体制の下、2位と躍進。にもかかわらず、同年オフには
広岡GMと
バレンタイン監督の確執で
バレンタイン監督が解任され、ファンは
バレンタインの退団を惜しみ、
広岡や
フロントを「暴挙」と非難。
バレンタイン監督の後任には広岡監督の大学の後輩が就任。「広岡の傀儡政権」と非難され、案の定、翌年の成績は振るわず、監督ともども、広岡GMもチームを去る。
その後もチーム状況は好転せず、1998年には伝説の18連敗。
その後
山本功児が1999年に2軍監督から昇格、
現在の投手王国の形成、新人獲得の
地元出身者偏重の解消など
チームの構造改革に取り組むも、
球団の資金難や
貧打線、
黒木知宏頼みの投手陣
(2001年まで)を克服できず定位置のBクラスからは抜け出せなかった(2002年は開幕11連敗とまたしても大型連敗を経験した)。
しかし、この
山本功児が監督のころにドラフトで獲得した
渡辺俊介、
今江敏晃、
西岡剛らは二軍生活を経て後のAクラス入りに大きく貢献している。
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長い低迷を経て、2004年にバレンタインが「全権監督」として復帰。プレーオフ進出を後一歩のところで逃すも勝率5割を記録した。
そして、
山本功児のまいた種の開花も重なって、2005年には、今江敏晃、西岡剛が台頭し、好スタートをきる。同年から始った
セ・パ交流戦では
初代チャンピオンに輝く。(毎日時代の初代パ・リーグ優勝、初代日本一に続いて3つ目の
初代王者の称号を得た)
この交流戦で獲得した賞金の一部は公約どおりファンに還元され、スタジアムへの送迎バス(京成バス)
のラッピング(ユニフォームと同一のカラーリングに
“ファン”を表す背番号26のマーキングを施し、
「栄光が俺たちを必要としている」「集え!
26番目の戦士たち」「俺たちと伝説を作らないか!」「No magic(奇跡無用)! そう、俺たちは強い」のフレーズ入り)などに使われた。
本当の意味で、マリーンズが地域密着球団になることが出来たのは、このあたりからであろう。
1995年のレギュラーシーズンは2位で終えたものの、プレーオフを勝ち上がり、日本シリーズへ進出。31年ぶり3度目の日本一に輝く。
しかし、2008年オフに、球団はバレンタイン監督と5年目以後の契約は結ばず、4年目の2009年シーズン限りとする旨発表。公式の理由は、高騰する監督の年俸を支払う余力がなくなった為としている。が、そのことが、ファンへの不振へと繋がり、2009年シーズン当初から、一部ファンがバレンタイン監督退任に対する抗議活動を実施。これに対して瀬戸山球団代表が社内会議で「千葉のくだらないファン」と発言したと記載された議事録が流出する騒動が起きた。
こういったことでファンが離れてしまうのは幾度も繰り返している球団だけに、今後の運営は注意してみていく必要があろう。気をつけてみておかないと、いつ何時ファンを無視した暴挙に出ないとも限らない。
*2004年には、
ホークスとの合併で、福岡移転や韓国国内への地盤作りも画策している球団である。
しかし、一方では2004年の球団合併騒動の反省から、地元自治体との協力体制を密にするなどの姿勢も見せており、現在では球団と行政とが一体となって地域密着策を展開している。
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<永久欠番など>
8:山内一弘〜有藤道世(但し、千葉移転に伴い永久欠番を解除。現在は
今江敏晃がつけており、準永久欠番扱い)
山内一弘:
「シュート打ちの名人」の異名をとり、
毎日オリオンズの
「ミサイル打線」の中軸として活躍。
有藤道世:現役時代から監督まで
ロッテオリオンズ一筋を貫き、「
ミスター・ロッテ」と呼ばれる。
26:ファン2005年以降に実施。試合中はダッグアウトの壁に、個人ネーム無しの背番号26ユニフォームがハンガーで掛けられており、試合に勝った時には、ヒーローインタビューを受けた選手が、ファンへの感謝を込めてそのユニフォームをファンの前に掲げる。